結火・むすび / Vol.04
梅雨
梅の実が熟す時期に降る雨だから、梅雨というようになった。ちなみに七夕の日に雨が多いのは、旧暦から新暦(太陽暦)に変わったときに、七夕も新暦で行われるようになった為、季節の上では梅雨の真っ最中に行われるようになってしまったからである。
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昨晩は、しとしとと雨が降り、空気が冷えて久しぶりに涼しい晩となりました。梅雨入りはもうすぐだそう。長い雨の夜には、部屋の中でその静かな雨音に耳をすましていると、不思議と心が安らかになっていきます。ところで、「梅雨の夜の雨」と言えば、「夜の梅」を思い出します。これはとらや羊羹(ようかん)の看板商品の名前。

「肌の色がかろうじて見分けられる暗がりへ入ると、ひとしお瞑想的になって、冷たく滑らかな羊羹を口中にふくめば、

あたかも室内の暗闇が一個の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、本当にはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが加わるように思う。」というのは、「陰翳礼讃」(いんえいらいさん)で谷崎潤一郎が言ったことです。

今日は、「闇」に見いだす美の話です。これから、太陽が顔をのぞかせる時間が減り、暗い空が続く時期に入りますが、暗がりの中でも美しいものを見つけられることの良さがわかる、そんな小話をお届けします。

谷崎潤一郎
明治末期から第2次世界大戦後にかけて活動した小説家。一時期ノーベル賞候補者にもなったが受賞することなく世を去る。その中でも陰影礼賛は谷崎潤一郎の代表作の一つ。日本人が近代化することによって失いつつある、暗闇の魅力を書いた本である。
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とらやさんのホームページを見ていると、羊羹にも半透明の水羊羹、紅色や抹茶色など、色々とバラエティに飛んでいることがわかります。とはいえ、「羊羹」と言われてイメージするのは、やはりどこまでも沈殿した墨色。小さな頃、わたしはこの真っ黒なかたまりに魅力を感じることができず、お土産でいただいたとらやの羊羹が家にあっても、ふわふわのシュークリームや、甘酸っぱそうなレモンタルトが隣に並んでいたら、迷わずそちらを取っていました。ですから、羊羹を好んで食べるようになったのは、まだ最近のことです。素直に羊羹て美味しいと思ったのは、ある和カフェを訪れたときのことでした。

そのカフェは、目黒川沿いにあるHIGASHIYA。こちらは1階が和菓子の販売、2階が茶房になっています。茶房は、昼にはお茶と和菓子が楽しめるカフェで、夜にはバーの顔に変わります。ぼーっとしていると、うっかり通り過ぎてしまいそうな店構え。重い銅製の扉に細長いガラス窓がついていて、そこから薄暗い店内がのぞいて見えます。茶房に入り、一段高いバーカウンターに座ると、ちょうど同じ視線に茶釜が構えてあり店員さんが目の前でお茶を点ててくれます。お酒も、夏みかんの焼酎や山椒のウォッカなど、一風変わった和風の自家製酒が揃っていて、深夜3時まで和菓子とお酒、お茶が楽しめる他に類を見ない和モダンなバーです。

とらや
480年前に創業した京都を発祥の地とする和菓子店の老舗中の老舗。
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HIGASHIYA
株式会社simplicityによるプロデュース。西麻布にも「HIGASHIYA ori」がある。
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1年前初めてこの茶房に訪れたとき、わたしは羊羹を食べました。連れが「今日の和菓子を」と頼み、店員さんの運んできてくれた桐箱の中に並んだ、小ぶりで黄色い粒が上品な栗羊羹でした。わずかな間接照明だけが灯る店内はほとんど闇。聴こえる音は、ボリュームを小さくして流れるJAZZのBGMと、お茶を点てる軽やかな水の音だけ。桐箱から離れて、濃い墨色の器にのった羊羹は、空気の闇色に馴染んで、その姿はほとんど見えません。何気なく口に運ぶと、ひんやりと冷たい羊羹のほのかな甘さが口いっぱいに広がって、栗が小気味よい歯ごたえをしていて、羊羹の独特の舌触りや栗のコリコリとした感触がよりいっそう引き立てられ、それはそれは美味しいのでした。

日本料理は目で楽しむものと言われますが、あえて目にせずにその様子を想像しながら楽しめる料理でもあるんですね。

花手鞠(はなてまり)のお吸い物は黒と朱色を重ねた漆の器の方が感じが良く味わい深くなりますし、煮魚は同じ色合いの陶器の方が醤油と色が馴染んで食欲をそそります。色がくっきりとして見えやすいよりも、むしろ見えにくい色は見えにくいままでよいのです。

他にもお歯黒、錆(さび)が生ずるのを楽しむ銅器など、闇を前提として美しさを感じる日本人の感性の元は、日本の家屋の構造から来ていると言われています。古い日本家屋はどれも、レンガやガラスやセメントのようなものを使う代わりにひさしを長くして、風雨から家屋を防ぐ作りになっていました。つまり、光を入れようとしなかったわけではなく、最初から暗い部屋に住むことを余儀なくされたのです。闇が基本の暮らしの中で、美しいものを見つけようとしているうちに、日本人と闇は切っても切れない関係となりました。

こうしてよくよく考えれば、確かに闇色の美しさは日本人の感性の元となっているな、とは思いますが、実際に普段の暮らしの中で「闇」そのものを感じることがあるかといったら、少なくとも東京に住むわたしには思い当たりません。東京の夜といったらどこもかしこも明るくて、真夜中だと感じるのは空の闇色を目にしたときではなく、道ばたで泥酔している人が増えるとき、というのが正直なところ。

一方で西洋の国、ドイツに去年の暮れに行ったときには、「闇」に出逢ったのを覚えています。日が落ちるのが早く昇るのが遅いその街では、街灯が少ない道ばかりで、家々でともるろうそくのオレンジ色の灯りをたよりにして歩きました。闇の中に沈んだ家は日本のそれとは違いコンクリートでできていて、白や緑、水色と可愛らしい色が多かったのですが、それもまた西洋的な闇色への馴染み方を魅せていて、とても綺麗でした。

何よりも、街灯や室内の電気に頼らずに、夜の時間がくればろうそくの灯りをともし、ふくろうのホウホウという鳴き声を耳でつかまえて眠りにつく、というドイツの人の暮らし方は、渋谷のセンター街で感じる真夜中の時間よりずっと健全で、感じのよいものでした。

中国にある陰陽思想は、陰(東洋)と陽(西洋)は相反するものだが、正反対のそれが調和して初めて、自然の秩序が保たれるという考え方です。シンボルは、洋服のブランドtown&countryのロゴでおなじみ、そういえば満月と同じ丸の形をしていますね。空が闇色におちはじめたら、電気を消して、ろうそくの灯りをともして過ごすと、西洋であれ、東洋であれ、闇の色は同じ色、きっとそれぞれの国の暮らし方に合った美しさを、その中に見つけられるのではないでしょうか。

谷崎は『陰翳礼讃』をこういう言葉でしめくくっています。

「壁を暗くし、見えすぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾をはぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。」

週末の天気予報は晴れなので、きっと闇色に浮かぶ満月の姿を目にすることができます。月明かりとろうそくの灯りが闇色をやわらかく灯す、素敵な一夜を過ごしたいですね。

むすび書き:香音(かのん)



暦の待ち受け画面ダウンロード
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今回の暦の待ち受け画面
夕焼けが遅くなっていくのと同時に、朝焼けも徐々に早くなってきました。午前4時くらいからもう東の空が徐々に茜色に染まってきて、自然のグラデーションがかかっていきます。このグラデーションが急激に空の色を変えていく様を見ているのはなんとも贅沢な時間。夏至はもうすぐです。

「結火」では毎回、メールマガジンの配信と連動して配信された日の暦のケータイ用待ち受け画面をお送りします。その季節を代表する写真の上に、その日の旧暦での日付(2007年6月1日は、旧暦では4月16日になります)

そして、その日の月齢(2007年6月1日は、月齢15.6、つまり満月ですね)が表されています。

ひじりのこよみ:
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